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2014年5月2日金曜日

8話 彼女に会いたくて 2


序章・ 8・ 101112


朝焼け
「冬はつとめて・・・」なんてのがありましたが、夜明け前はどんな季節でも気持ちのいいもんですね。
黒とも紫ともつかない空が、ツーンと緊張感を誘っていますよ。
今日も空模様は御機嫌が良いようですね。
今日も良い釣りをしましょう。

彼女を見かけてからひと月、毎週この空を眺めています。
大と二人で飽きもせず、あの砂地のテラスに通っているんですよ。
幸い彼女はあの 弛みがお気に入りのようで、大岩のエゴから出てきては底石を渡り歩いていますよ。
しかも不思議な事に、毎週その姿を現してくれるんですよ。
惚れ惚れとする 見事な尾鰭で、私達を誘っているようですね。
手を替え品を替えアプローチしているんですが、なかなか振り向いてもらえませんねぇ。

「今日は会えるだか?」
握り飯を手渡してくれるカミサンの微笑は、ちょっぴり意地悪ですね。
「オゥ、今日は餌ぁ替えたからなぃ。昨日オニチョロ捕っといたでな、何とかなるだず」

オニチョロと云うのは川虫なんです。
図鑑で調べるとカワゲラの仲間のようですね。
岸近くの浅瀬にいるので、捕り易いんですよ。
チョロや ピンチョロと呼ばれるカゲロウの仲間より大きいでしょ。
オニチョロは赤い虫と黄色い虫がいるんですが、黄色い方が釣れますね。
黄色に黒い縞模様があるの で、すぐに分かるでしょう。川虫は釣れますよ。それもその筈、渓魚の定食みたいなもんですからねぇ。夏にオニチョロが羽化するまで、彼女達は川虫を貪って いるようですよ。

オニチョロ
魚の臓を見てみましょうか?
春から初夏にかけて、やっぱり川虫ばかりですねぇ。
胃袋の虫達は溶けてしまっていますが、食道に残っている 虫はまだ解りますよ。
ほら、オニチョロがいますよ。
大型の魚、特に岩魚がオニチョロを好むようですね。
山女魚は?チョロが多いですね。
小さめの虫が好きな のかなぁ。
魚にも好みがあるんですかね。
さて、オニチョロを連れて彼女に会いに行きましょうか。

アッそうそう、川虫を連れて歩くにはチョットしたコツがあるんですよ。
川虫はす ぐに死んじゃう弱い虫なんです。
まずは水分のようです。
水中の虫ですからねぇ、水分だけは欠かせませんよ。
それともう一つ、小さな箱に沢山いれてしまうと 早く死んでしまうようですよ。
ストレスに弱いんですかねぇ。
プラスチック容器、タッパで良いですね。
楽に運べる最大のものを選んでください。
中には水を含 ませたガーゼを敷き詰めましょう。
そこにオニチョロを入れておくだけ。簡単でしょう?

私は、20cm×10cm×10cm位の木箱を使っています。
中には充分に濡らした水苔が入ってるんです。
木箱を開けると、湿った水苔 の上を虫達が激しく動き回っていますね。
おっと!虫たちが木箱を這い上がって逃げてしまいましたよ。
そうなんです、木箱は虫たちにとって登り易い素材なん ですね。
私の餌箱を良く見てくださいな。
縁に透明のプラスチックが貼ってあるでしょう?
これだけで虫たちは逃げ出せないんですよ。
ネズミ返しならぬ川虫返 しですかね?
餌箱を明けた時、プラスチックが目に入ることがチョッとだけ不満なんですけど・・・

木箱に風情を付け加えましょうか?
台所のガステーブルに火 を点けてください。
そして木箱を少しずつ炙ってみてください。
ほらほら、木目が綺麗に出てきたでしょう?
う~ん、渋くなりましたねぇ。
あれ?無駄話をしている間に陽が昇り始めてしまいますよ。
さぁっ、彼女に会いに行きましょう。

「お~ぃ、大!行くど~!」
通い慣れた東沢の斜面、弛みの下流50m程に降りましょう。
「ふ~ぅ、こんだけの坂んなりゃぁ汗かくわなぃ」
「オラァ大丈夫だで」
「そうかぁ。ほんじゃぁ、仕掛け作って行くかゃ?」
「うん」

狙いの魚がいるときは下流に降りましょうね。
間違っても直接ポイントに降りてはいけませんよ。
97度の円錐の底面と水の屈折で、魚に走られてしまいます。
走った魚は底石に貼りついて、”探り”でもしなければ捕れませんよ。
どうせなら、釣りたいでしょう?

沢
「大、流してみれや」
例のテラスで彼女へのプロポーズ開始です。
ポトッ、スーッ。大岩のエゴを直接狙ってますね。
彼女が一番気に入っている場所ですよ。
朝一番には、ここから出て来ることが多いんです。
ポトッ、スーッ。ユラッ。
出て来ましたよ。
腰を左右にゆっくりと振りながら、アレ?オニチョロを通り過ぎて対岸の木陰に入りましたね。
こんな時、諦めて仕掛けを上げてはいけません。
川虫は通常そんな動きはしませんよね。
魚に「何かヘンだなぁ」と思われないように、出来るだけ下流まで流し たほうが良いようです。

スーッ、ピタッ。
アタリか?いや、そうではなさそうですね。
大は竿を止めたままでしょ。
オニチョロで弛みを狙う時、たまにあるんですよ。
オニチョロが底石にしがみ付いちゃうんです。
もう少し浅いタナを流したほうが良いのかな。
下流側に、そっと剥がしてあげましょう。
スーッ、プルッ、クンッ。
うまい。掛かりましたよ。12~3cm程のチビですね。他の魚を散らさないように、静かに取り込みましょう。

バシャッ!
「ばか!あにやってるだぁ!」
大が掛かったチビを、いきなり水面に上げてしまいましたよ。
あちこちで、黒い影が走ってしまいましたね。
大が泣きそうな顔で近づいてきます。
仕掛けの先では12~3cm程の綺麗な居着きが暴れてますよ。

「オイ、チビが可哀相だで。放してやれゃ」
「うん」
手を水に浸けて充分に冷やしてから放しましょうね。
冷やさないで触ると、岩魚が火傷してしまうんです。
10cm以下のチビになると、手の中で死んでしまうこともあるんですよ。
気を付けて下さいね。

「大、あんしただぁ?あんな事したら、みんな走っちまうでゃ」
「そんな事、知ってるわぃ。でも、おっかなかっただょ」
「おっかねぇ?あんなチビ、おっかなくも何ともねぇでゃ」
「違うだ。チビ取り込む途中でな、彼女がチビ食いにきただよ。おどけたぁ。父ちゃん、岩魚は岩魚を食うだか?」
「おぅ、食うで。だけど、オメェ良いもん見たなぁ。来週はルアーでも持って来っかぁ」

渓流で釣り師達が囁きます。
「魚は山女魚までだゎなぁ。岩魚は獣だで」

今週も彼女には会えませんでしたねぇ。
でも、収穫はありましたよ。彼女、獣になっていたんです・・・

つづく


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